「今日もいい天気ですね」
「はい、風がとっても気持ちいいです」
* * *
この日も柚希〈ゆずき〉は、川で紅音〈あかね〉との時間を過ごしていた。
あの一件以来、またこうして穏やかな生活が戻ったことは、柚希にとって何よりの喜びだった。
確かに色々と問題は残されている。何ひとつとして解決していないとも言える。 しかし柚希はあの日、これからは逃げないと誓った。 山崎の問題も、必ず自分の力で乗り越えてみせる、解決してみせると決意した。 柚希は環境に翻弄されていた日々と決別し、自ら能動的に生きていく道を選んだ。いつも穏やかで優しい柚希の横顔に、凛々しさが宿っていることを紅音が感じたのも、必然と言えた。
紅音の柚希への想いは、日に日に深まっていった。「でも紅音さん、紫外線の為とはいえその服、暑くないですか?」「確かにこの服、見てるだけで暑くなりますよね。でもこれ、見た目よりも涼しいんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。この服、これでも夏用なんです。生地も薄いですし、風通しもいいんですよ」
「なら安心です。紅音さんが僕との約束の為に、暑いのを我慢して来ていたら悪いなって思ったんで」
「そんなことないですよ。それに……私はいつだって、柚希さんとこうしてお話ししていたいですから」
そう言って紅音が、柚希の手に自分の手を重ねた。
「紅音さん……」
柚希がその手を握ると、紅音も握り返してきた。
そして二人、体を寄せ合いながら空を見上げた。* * *
「なーにやってるんだか、お二人さん」
土手から陽気な声が聞こえた。
その声に、柚希と紅音は反射的に手を引っ込め、土手を見上げた。 そこには自転車にまたがっている、早苗〈さなえ〉の姿があった。
「じゃあ柚希〈ゆずき〉、そろそろ帰ろうか。準備も出来てると思うし」「なんか悪いな。僕なんかの誕生日で」「ゆーずーきー」 柚希の耳たぶを、早苗〈さなえ〉が力一杯に引っ張る。「いたたたたたたっ、ごめん、ごめんってば、早苗ちゃん」「あんたねえ、たった今彼女になった私の前で、よくも僕なんかって言ったわね。それってさ、そんな男を好きになった私に対する侮辱だよ?」「いたたたたたたっ、だからごめん、ごめんって」「もう言わない?」「言わない言わない」「よし、許した」 早苗が耳たぶを離す。「はあっ……結構本気で痛かったよ」「じゃあ」 そう言って、柚希の頬にキスをした。「わっ……さ、早苗ちゃん、恥ずかしいよ……」「おまじないよ、おまじない。痛いの痛いの飛んでけーってやつ」「……でも今の、さっきのキスより恥ずかしかったかも……」「も、もう馬鹿柚希、そんなに照れないでよ。私まで恥ずかしくなるじゃない」「むふふふっ」 聞き慣れた笑い声。 二人が慌てて振り向く。 コウを連れた晴美〈はるみ〉だった。「むふふふっ。お邪魔だったでしょうか」「……し、師匠?」「いや、だから晴美さん、いつもなんてタイミングで出てくるんですか」「むふふふっ。別に私、隠れてお二人の愛の告白を一部始終、盗み聞きなんてしておりませんからご安心を」「師匠―っ!」 早苗が顔を真っ赤にして叫ぶ。「ははっ……全部、見てたんだ……」「いえいえ、これはあくまでもアクシデントでございます。コウを連れて早苗さんのお宅に伺う道中、偶然お二人の姿
風が少し、強く吹いた。「え……」 早苗〈さなえ〉が顔を上げ、柚希〈ゆずき〉を見つめる。 そこには早苗の大好きな、穏やかな笑顔があった。「早苗ちゃん。好きです」 聞き間違いじゃない。 柚希は今、自分のことを好きだと言った。「あ……」 早苗が声にならない声を漏らし、その場にへなへなと座り込んだ。「だ、大丈夫? 早苗ちゃん」 柚希が早苗の腕をつかみ、慌てて自分も腰を下ろした。「私の耳……変になったかも……」「早苗ちゃん、変になってないよ……って言うか、どう聞こえたの?」「柚希が私のこと、好きって……付き合ってって……」「うん。僕、今そう言ったよ」「本当? でも、どうして……」「僕が早苗ちゃんのこと、好きだから」「そんなこと……だって柚希は、紅音〈あかね〉さんのことが……」「確かに僕は、紅音さんのことが好きだった。今も好きだよ。この気持ちは、これからも変わらないと思う」「だったら」「僕は早苗ちゃんから気持ちを伝えられた時、少し時間がほしいって言った。それは僕の中に、早苗ちゃんと紅音さん、二人の女の子が間違いなくいたからなんだ。 だから僕は、自分にとって何が本当なのか、考えたかった。それをずっと、ずっと、考えてた」「……」「あの日、僕はこの場所で、紅音さんから告白されたんだ」「紅音さんから……」「嬉しかった。憧れの紅音さんからそんな風に想ってもらえて……でもね、同時に紅音さん、僕を振ったんだ。『でも、柚
祭りの最中、突如として死の大地になった神社。 その衝撃的なニュースは、のどかな自然が広がるだけだったこの街を、一夜にして日本一有名な街へと変えてしまった。 毎日の様に空を旋回する報道ヘリ、街を歩けばカメラを向けられ、コメントを求められた。 また、この日を境にして忽然と姿を消した5人の行方もつかめず、週刊誌が「現代の神隠し」との見出しで騒ぎ立てた。 神社の境内では、今も調査が続いていた。 原因が全く分からない、この奇怪な現象。 土は死に絶え、向こう10年は何も育たないだろうとも言われた。 山の中腹に出来た楕円形の荒地には、神々からのメッセージなのではないか、UFOが降り立った跡なのではないか、などと言ったゴシップ的な噂も流れ、世間は無責任に盛り上がった。 しかしいくら調べても特に進展することもなく、二週間も過ぎた頃には世間の熱も冷め、報道する回数も日に日に減っていき、街は少しずつ平穏な日常に戻っていった。 * * * 柚希〈ゆずき〉や早苗〈さなえ〉も、元の生活を取り戻しつつあった。 あの日の後、柚希は早苗と孝司〈たかし〉に全てを打ち明けた。 最初の内は二人共、余りに荒唐無稽なその話を信じることが出来なかった。しかし、紅音〈あかね〉を失った柚希の真摯に語るその姿に、少しずつ受け入れる姿勢になっていった。 そして何より、クラスメイトの三人が神隠しにあったこと、神社で起こった、誰人にも説明出来ないこの異様な現象を、ある意味何の矛盾もなく説明出来る柚希の話は、受け入れるに値するものでもあった。 孝司は今、全てを信じることは出来ない。ただ柚希のことを信用している以上、この話を受け入れない訳にはいかない、そう言った。 そして柚希の願い通り、このことは一切他言しない、そう約束した。 早苗はショックを隠しきれなかった。 早苗がいつも感じていた、柚希と紅音の深い絆。そこにこれ程までの理由があったのかと思うと、体の震えが止まらなかった。 紅音が、そして柚希がこれまで背負っていた十字架の
「ありがとうございます、紅音〈あかね〉さん……そんな風に想ってもらえて、本当に嬉しいです」「柚希〈ゆずき〉さん……」「正直に言いますが、実は僕も、紅音さんに告白しようって、ずっと思ってました」「え……」「でも中々勇気が出なくて……だから僕も今、紅音さんに告白します。僕も紅音さんのことが、好き……です……」「柚希さん……」「駄目ですね、女の子にこんな恥ずかしいことを言わせるなんて。僕がしっかりと、先に告白するべきでした」「ふふっ、確かにそうかも。私はともかく、早苗〈さなえ〉さんにはそうしてあげるべきでしたね」「ええっ? 紅音さん、知ってたんですか?」「はい。早苗さんはお友達ですから」「参ったな……これじゃあ僕って、本当に空気の読めない唐変木〈とうへんぼく〉じゃないですか」「はい、晴美〈はるみ〉さんもそうおっしゃってました」「あはははっ……面目ない」「ふふっ……でもこれで、気持ちがすっきりしました」「……」「……この想いだけは、どうしても伝えたかったんです。でも出来れば、こんなことになる前に伝えたかったです」「紅音さん……」「早苗さんにはもう、お返事されたんですか?」「あ、いや……それはまだ……」「駄目ですよ。想いを告げられた殿方としての責務、ちゃんと果たさないと」「でも……」「でも、じゃないですよ、柚希さん。早苗さんは本当に素敵な方です。私がもし男だったら、間違いな
「……」 誰もいない夜道を歩き、柚希〈ゆずき〉は紅音〈あかね〉を探していた。 山崎に会った後で、柚希は学校にも足を向けていた。 そしてそこで、山崎の仲間と思える二人の骸を見つけた。 これ以上被害が広がる前に、何とかしないといけない。そう思い紅音を探す柚希の耳に、一発の銃声が聞こえた。 それはあの、いつも紅音と会っていた川の方から聞こえた。「紅音さん……」 柚希が早足で、あの場所に向かう。 今なら。きっと今なら、まだ間にあう。 紅音さんを守ると先生に、そして自分に誓ったんだ。 柚希が何度も何度も、心の中でそう叫んだ。 * * * 満天の星空が川面に映り込み、輝いていた。 川の周りでは、蛍の光が辺りを彩っていた。「……」 その幻想的な世界の中、紅音が一人たたずんでいた。 妖艶で美しいその姿に、柚希が息を呑んだ。「紅音さん……」 土手を降りながら、柚希が声をかけた。 柚希の声に体をビクリとさせた紅音が、振り返らずに囁いた。「柚希さん……来ないでください」 その声は、風が吹けば聞き取れないほど、弱々しいものだった。 柚希の脳裏に、初めてここで会った時の記憶が蘇る。「それは……無理ですよ。だって僕は、こうしていつも紅音さんの側にいたいんですから」「でも……駄目です、柚希さん……私……今の姿を見られたくないんです……こんな醜くて、罪深い姿……」「紅音さんがどんな姿でも、僕にとって、紅音さんは大切な友達なんです。紅音さん、お願いです。こっちを向いてくれませんか
今、どの程度の被害が出ているのだろうか。 家を出る前に聞いた青年団の無線によると、祭り会場の半分近くが、灰色の死の世界と化したようだ。 怪我人もかなり出ている。 覚醒した紅音〈あかね〉の能力は、明雄〈あきお〉の予想を遥かに超えていた。 明雄が立ち止まり、月を見上げる。 穏やかな夜だった。 虫の鳴き声が聞こえ、時折吹く夜風もまた心地よかった。 いつかこんな日が訪れる……妻を失ったあの日から、明雄には覚悟が出来ていた。 決して人に理解されない、異能の力。 決して人に支配されることのない、忌まわしき力。 それは、この世に存在してはいけない力だった。 それに気付いた時、決断すべきだったのかもしれない。 事実明雄は妻を亡くしたあの日、紅音をその手にかけようとした。 気を失った紅音の処置が済み、晴美〈はるみ〉が妻の遺体を片付けている時だった。 混乱していた気持ちが整理されていく内に、明雄の中に紅音への恐怖が生まれていた。 この子をこのまま、生かしておいていいのだろうか。 この異能の力を、私は制御出来るのだろうか。 この力は、決して世に出してはならないものだ。 ならいっそのこと、今自分の手で封じ込めた方がいいのではないか。そう思った。 明雄は震える手で、紅音の首を絞めようとした。 しかしその時。 明雄の中に、これまでの紅音との生活が蘇ってきた。 初めて抱いたあの日。天使の様に無垢で真っ白な我が子に涙した。 いつも自分の側から離れず、声をかけると嬉しそうに笑った顔。 父の日に、自分を描いてくれた時の真剣な眼差し。 明雄の手が紅音から離れた。 出来ない。私には、この子を殺めることは出来ない。 どれだけ邪悪な力を持っていたとしても。 今目の前で眠っているこの子は、私にとってたった一人の愛すべき娘だ。 例え世界を敵にまわすことになろうとも、私はこの子を